水曜日, 6月 05, 2013

北都心ノ病院ニテ幻覚幻聴ニ襲ワレルコト

 タイトルはもちろん、澁澤龍彦のエッセー「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」の真似だが、昨年(2012年6月)食道の腫瘍摘出手術をした時に正に恐ろしい幻覚と幻聴に襲われたのは今でもくっきりと脳裏に刻み込まれている。

 まずは手術後ICUにておかしな現象が起こった。
腹を切られてベッドに仰向けにしかできなく、自分がどのような場所(ICU)にいるのかが理解できなかった。
そうこうしているうちに、脊髄に埋め込まれているチューブから痛み止めという薬が注入された。注入された瞬間、全身が冷たく感じた。今思えば、痛み止めというのは麻酔系の薬だと思われる。
 その痛み止めを注入されてから10分も経たないうちに、幻聴がはじまった。相当重症な患者が大手術をしたのでその監視を怠らないようにと医師が言っている。わたしは仰向けにしかなれないのでその様子がわからない。唸り声と獣の叫びのような音が混ざったような不気味な声が聞こえる。まさに、断末魔だ。ただ不思議なのが、同じ会話や音が何度も繰り返し聞こえるのだ。「監視を怠らないように」「聞こえますか?」「首を切っているからね」あとは、コツコツという足音、それも同じリズム。カーテンの引く音。頭のなかが同じ音の洪水で溢れていた。
 身動きできないので、ただただ恐怖に慄きながら聞き入っていた。
 ひとつ、おかしなかことがあった。それはその重症患者に付き添っていると思われる母親の声がわたしの妻の母親の声なのだ。世の中にはそっくりな声のひとがいるものだと思っていたが、これも幻聴だろう。

 この音の洪水のICUにはまる二日間いたのだが、一般病室の個室に戻れることになったときには心からホっとしたものだ。

 ただ、その想いは甘かった。個室に戻ってからがいよいよ幻覚幻聴がヒートアップした。断末魔のような幻聴はなくなったが、今度は医師たちがわたしを実験材料には最適だというマッドサイエンティスト的な会話が聞こえてきた。
「いまだと、腹の傷口から細菌をふりまけばすぐに感染するな」
「成功させるためにも医師、看護師が一丸となってとりかかるように」
という今思えば三流漫画にも劣る内容だが、その会話がぼんやりではなくて、はっきりと聞こえてくるのだから、こっちとしては恐ろしい事この上ない。
 
 ICUでは幻覚は見なかったが、個室に戻って、すぐに幻覚がはじまった。ベッドの左手に広い窓があり新緑が見えるのだが、その窓に炎や死、怨という文字がメラメラと揺らめきながらうつっている。次にはカーテンレールに添って布の筒(送風させるためのものらしい)があるのだが、その筒の先端が鬼のような形相に変化して、こちらを上からじっと覗いている。たまにそれが伸びたり縮んだりする。まことに気味が悪い。かと思うと、天井に赤いシミが見えた方思うと、みるみる拡がってハングル文字のようなへんな形の文字のようなものが天井いっぱいになったりした。
 あとは光だ。目を瞑るとピンポイントに光を当てられているようでとても眩しく熱い。そして、目を開けるとそんなことはない。また瞑ると眩しく熱い。眠れないのである。

 深夜、そのような光攻撃と幻覚幻聴に襲われながら、無意識に妻へメールで「殺される!転院させてくれ!」と送っていた。何事かと飛んできた妻は不安気にどうしたの?と聞くので、すぐさま、わたしは「盗聴されているから喋らないで」と。
その後、しばらく筆談をしたが、妻にはまったく理解できないようであった。当たり前である。すべては、わたしの脳内で起こっている幻覚幻聴なのだから。

 孤立無援。そんな感じを覚えたが、わたしには現実に見えるし聞こえるので、看護師が血圧を計ろうするのに罵声を浴びせたりしていたようだ。

 幻覚幻聴はICUにいるときをふくめて、四日間ほどで終わった。何もなかったように静かになった。

 それにしても自分がこのような、せん妄性の幻覚幻聴に襲われるとは思ってもみなかった。ただ、思い当たることも多少ある。この腫瘍摘出術はどうにも腑に落ちないところがあって、手術するのにとても抵抗感があったのだ。どうやら、納得せずに腹を切るとろくなことがないようである。



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